たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第42号・2005.09.10
31

過酷な過疎地に残るこころの豊かさ

『おばあちゃんのしまで』

写真  UターンとかLターンと呼ぶが、都市から脱出し郷里に戻ったり、郷里でなくとも地方の町や村に生活拠点を移す人々が増えていると聞く。ぼくの幼なじみの幾人かも何人か郷里へ帰った。人里離れた山村にログハウスを自分の手でせっせと創り上げ“田舎暮らし”を始めた友人もいる。田舎の情景に想いをはせて、“そうだよなぁ”としみじみ思う。勝ち組・負け組などと称して価値の尺度が金銭で語られることの多い大都市の生活は油断すると“こころの砂漠”に誘引されてしまう。
 だからといって田舎暮らしはたやすくはないだろう。都市の利便さに寄りかかり生きてきた人々にとって想像をはるかに超える実際が眼前に立ちはだかるはずだ。…人がいない、小さな小さなコミュニティという厄介さ。共同体の鬱陶しさも村人たちは抱いていると思う。
 首都の昼間人口が一〇〇〇万人を突破、総人口の一割を超えた一九六〇年代、都市の過密と農山村漁村の過疎が社会問題化する。人々は都市へ都市へと移動した。少子高齢化が大きく取沙汰される現在、過密・過疎が話題とされることは少なくなった。しかし、問題が解決されたわけではない。過疎問題はより深刻になっているのではないか。無医村に弁護士のいない町、学校までなくなった過疎地が至るところにある。小さな離島に至っては尚更だろう。
 けれど、過疎化が進んでも都市のように人の心は変らない。数々の不安を抱えながらも村人たちは肩を寄せあい、心が荒むことはない。厳しく美しい自然の大地に腰を据えた人生はそうそう簡単に揺らいだりしないのだ。

 絵本『おばあちゃんのしまで』は、瀬戸内海に浮かぶ小さな佐柳島が舞台。廃屋が目立ち店舗も公衆電話もない。もちろん無医村で、若い看護士ひとりが島人の健康管理に努め、コミュニティのかすがいのような働きをしている。子どもの姿は休みに里帰りする一家でもなければ見ることはない。で、学校なし。物語は、冬休みを利用して島におばあちゃんを訪ねたまゆみの数日間のこころの動きを追う。
 色鉛筆だろうかクレヨンだろうか、優しさを包み込むような色調の丁寧な絵画展開。決して名文とは言えないけれど誠実な暖かみのある素朴な文体。ふたつが実に気持ちよくハーモニーを保つ。
 そして、登場者たちに語らせる素朴な言葉の数々が胸を衝く。
 寒い桟橋に一人立ち、まゆみを迎えたおばあちゃんの第一声。「ようきた ようきた、ようきて くれたのう」
 たった二人の船旅に偶然に同乗してきたおじいさんの優しさ沁みる言葉。「おまごさんじゃったんかぇ。小さいのに ひとりで えらかったのう」
 認知症のおばあさんの背中で語る「無言」という言葉もこの絵本では必要な装置となる。
 いいなぁ、と思う。
 まゆみは、以前に島で出会ったえりの不在や、誰も通わない学校でさびしくブランコを扱ぐ。遠い昔この学校へ通った父の少年時代はどうだったのか。幼ない心は“流れゆく時代”を健気にイメージするのである。

 こんな風に綴るのは上手くないと自ら思う。如何にも過疎地の暗い一面を訴えようとするばかりのように語るのは、まずい。『おばあちゃんのしまで』は、島人の日常を基調として、島の人々のこころの豊かさを力強く描出する絵本なのだ。そして、少女まゆみと、若い力で明るく島人を支える診療所の看護士さとみの暖かな交流を主音として快く響かせる物語である。さとみは、過疎地の不安を表情に過らせながらも島のコミュニティを成立させる人々を励ましながら島人と共に生きる姿をまゆみに見せる。
 「このしま だーいすきだもん! だからね、おとなになったらね…」「しまで かんごふさんして…、お花 いっぱい つくるんだ!」。元気いっぱいに希望を言葉にするまゆみ。
 過疎地の体験は、都市と明らかに異なる清々とした心性を漲らせる。厳しくとも真摯な体験が生み出すものは豊かな想像力・創造力に連なると言えるのではないだろうか。
前へ次へ