一日半歩

“大人は「強さ」を伝えているか?”

 小中学校の校長は、自校の生徒を評して、「明るく、元気で、やさしい、真面目な子ども達」と語ってくれる。それはそれで良いのだが、私は何か物足りない。
 物足りないもの―、それは『強さ』ではないだろうか。言い換えれば、「勇気、忍耐、誠実、寛容、責任、がむしゃら、頑固、大義、志、そして愛」である。
 自らのことを書くのは気恥ずかしいが、私は「明るく、元気で、やさしい、真面目な」医師だと思う。しかし、自分の人生を振り返った時、今の自分に至る上で大切だったのは、むしろ『強さ』の方である。

 例えば、こんな私でも、人生の節目節目で大きな「勇気」が必要だった。医師である以上、「忍耐、誠実、寛容、責任」は必要不可欠だ。「大義、志」もさることながら、「がむしゃら」な上に「頑固」だったからこそ、探究心や向学心、向上心に燃えることができた。言うまでもなく、それら全てに共通していた思いは、やはり「愛」だった。
 しかし、こうした『強さ』は、医師だけに必要なのではない。どんな職業でも、また誰と結婚し家庭を築こうとも、地域や社会で生きていくには絶対に必要で大切なことばかりだ。そういう視点が、今まさに学校や家庭教育から抜け落ちてきているような気がする。

 では、『強さ』は一体どうすれば育つのだろう。その答えは、絵本『マコチン(灰谷健次郎/作、長新太/画、あかね書房)』に書いてある。
 主人公のマコチンは、一見すると我がままで自分勝手な暴れん坊だ。しかし、その自分勝手な暴れよう(がむしゃら・頑固)にも、実は彼なりに正当な理由(大義)が必ずあったのである。それが分かっていた“とよこ先生”だからこそ、「まことちゃん、先生をこまらせないで」とやさしく言ったり、「目にうっすらなみだをうかべて、そんなまことくんを見つめ」たり、必死にかばったり、時には褒めたりもしたのだと思う。

 マコチンの『強さ』は、色々な場で発揮された。例えば、犬に仕掛けた悪戯を、あとから不安に思って反省するマコチン(誠実)。我が身の不利を承知で、弟を守るマコチン(寛容・責任)。小言も言わず肩車をする父に憧れ、そんな父の仕事を誇りに思うマコチン(志)。

 圧巻は何と言っても、ラストシーンだろう。病気で休んだ“とよこ先生”のお見舞いに、マコチンは暗い夜道を心細くて涙ぐみながら、2つ先の駅まで歩き通したのである(忍耐・勇気)。お見舞いのチョコレートと手紙を無言で手渡すマコチン。手紙を読んで、思わず彼を強く抱きしめてしまう“とよこ先生”。そして、涙で声が出なくなった“とよこ先生”は、マコチンの背中に指でそっと文字を書いたのである。「う」・「れ」・「し」・「い」―と。
 その手紙には、こう記されていた。「せんせいしんどいか。しんどかったら、いつでもびょうきをぼくにくれ。ぼくはしんどかってもええ。せんせいがげんきになったら、ぼくはそれでむねがすーとする」(愛)―。

 マコチンは、『強さ』の芽をたくさん持っていた。しかし、そういう芽なら、子どもは多かれ少なかれ元々必ず持っているのではないだろうか。だとすれば大人は、その芽を摘んではならない。『強さ』を発揮できる体験こそ、大切にしなければならない。何よりも、「愛」をいっぱい注いであげなければならない。そうして、『強さ』は本物に育っていく。

 “とよこ先生”は、マコチンの『強さ』の芽を決して摘んだりはしなかった。褒め、かばい、たしなめ、許し見守りながら、その根底に「愛」を育ててくれた先生だった。

「絵本フォーラム」42号・2005.09.10

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