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− 6 − 『さっちゃんのまほうのて』の意味するもの |
山田無文先生とは、インドのバラナシという町で出会いました。ビルマへ日本兵の遺骨を集めにいく途中だということでしたから、すでに数十年も経っているでしょうか。 お互い久しぶりに日本人にあったせいか、ふしぎなほど、さまざまな話を交しましたが、山田先生のことが深くこころに残っているのは、先生が別のところで、こんなことを書いていらっしゃったからです。 先生が大学と関係のある養護施設の運動会に招かれたときのことです。 障害者の子どもたちが、次々に不自由な体であるにもかかわらず、まっ赤になって汗を流しながら全力で疾走する姿に、胸が熱くなったといいます。 ところがプログラムが進んでいくうちに、ピストルが鳴ると、あっというまに一人だけ飛びだして、みんなを引きはなしていったのです。あれよあれよと思ってるうちに、数十メートルも追いぬいていったのですが、突如たち止って急にしゃがみこんでしまいました。運動靴のヒモが解けたのです。 すると、しゃがみこんだ友人を見たとたん、引きはなされて遅れて追いかけていた子どもたちは、みんな一様にピタリと止ってしまったではありませんか。 しかし靴ひもなど、すぐ結んでしまえます。彼も手早く結ぶと立ちあがって、もとどおり走り始めました。 「どうだね。われわれ大人ならどうするかね」 あの子どもたちと同じように待てるでしょうか。先生は、あきれるように書いています。 「チャンス! 追いぬくのは今だ!」 さっと間をつめ、情け容赦もなく駆けぬけていくに違いないのです。 「相手が困っているのにつけこんで、追いぬいていくのが知恵ある賢い人間か? それとも、じっと待つのが知恵ある行動か?」 先生は、きびしく問いかけます。 「しかし、あの子たちは、チャンと待った。そんな子どもたちを、私たちは『知恵おくれ』などという。そんなことでいいのか。どちらが、ほんとうに知恵ある存在か!」 私たちは日常生活のなかで、たまたま知的な障害のある子どもを「知恵おくれ」であるとか「精神薄弱児」などと、平気で呼んでいるのです。もし、あの子どもたちが「知恵おくれ」という言葉が意味することを知ったとき、どれほどショックを受けることでしょう。私たちは、それでも「バカ」だとか「アホウ」だとか「精薄」だとか、そんな差別を、つづけようとするのでしょうか。 『さっちゃんのまほうのて』(野辺明子・志沢小夜子/作、田畑精一/絵、偕成社)は、先天性四肢障害児―つまり生まれつき体の一部に障害のある人たち、ここでは生まれつき指のない人たちの苦しみに正面から取り組んでいます。 著者である二人のお母さんの一人は、生れてきた子どもが障害であり、もう一人のお母さんは、お母さん自身が障害者である立場から、障害者だけでなく親子ともども世の中の無知にさらされながら、無理解と対応しながら、生きぬいていく勇気を与えようと懸命に展開していきます。 とりわけ、障害者だと気がついたときの心の動きが、それに対する世間の人たちの対応が具体的に描かれ、私たちの胸に深い感動を落してくれます。 その点、この絵本は人びとに障害問題を教えてくれるすぐれた絵本ですが、実は、ここに全く描かれていないにもかかわらず、現代の社会で行われている「社会正義」と「障害者問題」の根の深さを示している点、恐しい絵本だといえるでしょう。 絵本の読み方の一つの典型として見ていかねばならない問題を著者の一人のお母さんが、血の吐くような思いで語ってくれます。(この項つづく) |