横山充男と本
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「お砂糖童話」の裏側に見えてくるもの
 わたしは梅花女子大学の児童文学科というところで教員をしている。作家なので、おもに児童文学の創作方法や表現論などについて講義しているのだが、新入生たちに物語を書かせると、かならず出てくるひとつのパターンがある。お姫さまやお星さまやしゃべるお花などが登場してきて、とにかくやたらとかわいらしく作るのだ。こうした物語の主人公たちは、一様に生き方が受動的であり、しかも人畜無害の平和主義者であり、けっして自らが本質的に汚れることはない。あるときは涙し、あるときは苦しみを背負いつつも、身にふりかかった問題を能動的に解決する手段を持たないのである。幸せになるとしても、だれかの力を借りてしあわせになるパターンといえる。甘ったるいお砂糖でまぶした童話といえばいいだろうか。
 童話というものに抱いているある種のイメージとして、こうした「お砂糖童話」があるのは事実である。その原因を語れば長くなるのでやめておくが、わたしがまず新入生にアプローチするのは、そうした童話のイメージを壊すことからである。こうした「お砂糖童話」のねっこには、生きていくことへの甘えが潜んでいる。童話はたしかに夢を語る文学ではあるが、夢に逃げ込むための文学ではない。まさにこれから生きていくこどもにむかって語られる文学であるのに、作者が夢に逃げてどうする。たとえ夢は見果てぬものであっても、いっしょうけんめい知恵をはたらかせて実現しようとするのが夢である。だいいち、お砂糖童話でこどもが喜ぶなんて思っていること自体が、こどもというものをなめてやしませんか。児童文学というものを、どこかで軽んじてやしませんか。そんなことを語りかけながら、名作といわれる児童文学作品を、授業でもういちど読みなおすことにしている。一見かわいらしく描かれているようで、きちんと読めば、たいへんな深さをもった作品であることに気づくからである。

 わたしの大好きな作家に、あまんきみこさんがいる。彼女の作品は、学生たちもたいていはこどものころに一度は出会っている。原稿用紙にして十枚ほどの物語が多いのだが、そこに描かれる世界は明々白々で、やさしく、あたたかみがあり、主人公たちもにくめないかわいらしさがある。文章も平易で、わかりやすい。学生たちにも人気の作家である。その理由のひとつが、不遜なことに「こんな物語ならわたしにも書けそう」という親近感である。あまんさんの物語が、読者をあたたかくつつみこみ、何か深いものを感じさせてくれるほんとの理由を掘り下げないで、とりあえず書けそうな気がするのである。
 まさかあまんさんが、わずか十枚の作品に半年以上もの年月をかけ、悪戦苦闘しつつ推敲の鬼になって書きあげたものだとは気づかない。そして、あまんさんの生い立ちや、たどってきた人生が、作品に凝縮されていることにも気づかない。晴れた日の大海原は単純で美しい。だがその美しさやおだやかさは、深海の闇をも含んだ圧倒的なものによって支えられている。そのことを作品に即して学生たちに示すと、若く柔軟な感性をもっている彼女たちは、突如として目の光がかわってくる。彼女ら自身が、実はお砂糖童話がうそっぱちであることを知っているのである。そして、そんな優等生的なお砂糖童話を書かなくてもいいのだということにはじめて気づく。
 おなじような例として、絵本『いないいないばあ』(松谷みよ子文・瀬川康男絵)があるが、紙面が尽きてきたので、次回に述べさせていただくこととする。

 新入生たちに、こどものころにどんな絵本や童話に出会ったかをよく聞く。そのたびに、わたしは心配になることがある。彼女たちの童話や絵本との出会いが、どうも変なぐあいになっている気がするのだ。たとえば、せっかくの名作が、小学校の教室でみょうにねじまげられ、解釈をおしつけられたりしていないか。人畜無害のお砂糖童話によるアニメ風絵本が、絵本だと思って育っていないか。もちろん、ほんものの絵本や童話と真正面から出会ってきた学生も少なくない。だが、どうも変なのである。児童文学科に入学してくる学生でさえそうなのだから、ましてや他学科の学生たちはと、心配は深まるばかりである。

「絵本フォーラム」34号・2004.05.10


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