絵本の文章を担当する人の問題点は、文学の作家として自分を鍛えてきた人が多い
せいか、文章が文学としても完全でなければならない、と思いがちです。
つまり絵本の文章としての役割を忘れて、時にはつい書き過ぎという場合が、多い
ようです。
たとえば絵をみれば一瞬のうちにパッとわかるようなところまで「正確でなければ」であるとか「完全な描写でなければ」などと誤解して、すべてを書きこもうとしてしまいそうなのです。
主人公が赤い帽子をかむっているのは、特別、意味がない――つまり赤い帽子がストーリーを展開していくうえ、何らかの原因となって、役割を果すわけでもないのに、言いかえると何いろでも関係がないのに、わざわざ「××ちゃんは赤い…」などと書いてしまう悪いクセ。
酷なようですが、絵本の文章としての分を超えたおセッカイとしか言えません。
文学でさえ、小説を書きつづけた徳田秋声がいましめているように、「作家は何を書くかで苦労するより、何を書かないか、ということで汗を流すべき」だという言葉をわたしたちもしっかりと学ばねばならないでしょう。
これに似たことは逆に絵本の画家が、文章も書くときに、おちいりやすい過ちでもあるようです。ふだんから絵も文章も書くある高名な絵本画家は、月夜の晩に月の光で道が「銀いろに光っている」ということを文章にしているので、唖然となったことがあります。
銀いろという色彩語を使うかわりに、実際に道が銀いろに光っているところを絵で描けばいいのではありません。なぜ、わざわざ抽象的な言葉で説明をつけ加えようとするのでしょうか。
ひょっとしたら画家として自分の力量に不安があるので、絵として描きあげる自信がなかったのでしょうか。
しかしこの場合、銀いろというのは現実的に色彩語としてではなく、単にイメージとしての「銀いろ」という言葉でもあるような微妙なニュアンスもあって、判断のむつかしいところです。
■子どもはオノマトペが特別好きなのか
幼児向だけでなく少し大きい子どもの本には、どうしてやたらに擬音語や擬態語、つまりオノマトペが多いのでしょう。動物の声や車の音を模倣したり、運動するものの状態や様子を言葉におきかえたりするということの問題です。擬音語はそのものが何かとわかる程度にアッサリと、また一方擬態語は状態などより一層リアルに表現するのが原則ですが、最近出たファストブックの文章には、ちょっと、あきれました。一行ずつにオノマトペが、繰りかえされるのです。
わんわんわん(いぬ)
ころんころんころん(どんぐり)
ぽりぽりぽり(おくちのぽけっと)
(おひさま)ぽかぽか
みみを(ぴくぴく)
この絵本の絵は近ごろ珍しい格調の高い写実的な絵で、マンガ化が横行している中では科学絵本としては傑作といえますが、この手垢のついたオノマトペにはガッカリです。いぬ「ここ掘れわんわん」からはわんわん、にわとりはコケコッコウと鳴くことに決まっていますが、なぜ幼児期から一方的に通俗的なオノマトペをおしつけるのでしょう。
若葉で森の木々がもり上るような情景を、ウルウルと感じとった宮沢賢治のセンスのすごさを見習いたいもので。
更に絵本の文章では、オノマトペどころではありません。赤ちゃん語や家庭語、「お」さえつけたらいいという姿それに創作だけでなく昔話のようなものにも、その脚色、潤色、再話については想像以上の誤解や悪い伝統がありますから、きびしく点検していかねばならないようです。
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