たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第118号・2018.05.10
●●107

「カナシミ」をいっぱいかかえて生きる。

『でんでんむしのかなしみ』(新樹社)

 

 戦闘がつづくシリア、連日のように罪もない多数の市民が被弾する。内戦というが、米ロにイランがからむ正真正銘の戦争である。4月13日、ついには、今や世界の警察官を自称すらできなくなったはずの米軍がミサイル105発をぶっ放す。シリア政府軍が「化学兵器を使用した」からだという。真偽が疑われる同じ理由で英仏軍も戦闘に追随した。8000キロへだてた遠くの国の、罪なき民衆や子どもたちの、あまりにむごい、悲しく哀しい戦争被害の姿に言葉を失う。

 ぼくらの国、日本社会の状況も惨状に等しいと思う。いっとき、官僚たちが公文書の隠ぺい・改ざんをつづけ、面会記憶も失う。一強とされる首相の案件をことごとく忖度し、糊塗・隠ぺいに奔走の体なのだ。かくして国会は空転し議会制民主主義が壊れかかる。 ぼくは、状況打破に立ち向かう人びとのシュプレヒコールにせいいっぱいの希望を見いだすけれど…。しかし、多くの人々のあいだにあきらめに似た空気がただようのも現実だろう。残念無念の想いは、悲しいし哀しい。

  喜怒哀楽といい、何人も人であるかぎり喜び・怒り・哀しみ・楽しみの四つの感情を持つ。喜びや楽しさばかりはつづかない。怒髪天をつき哀しみに打ち震えてもいつかは治まるはずだ。これら感情を発露し抑制しながら人びとは生きぬく。

でんでんむしのかなしみ 新美南吉の短い童話に「デンデンムシノカナシミ」がある。全文カタカナの分ち書き作品だ。昭和初期に活躍した童謡・童話作家は30歳の若さで早逝、短い波乱万丈の生涯であった。喜び・楽しみもあっただろうが、彼の人生は「カナシミ」多い人生であったように思う。南吉は、抱えた「カナシミ」にどんなふうに向き合ったのだろうか。

  絵本『でんでんむしのかなしみ』は原作を平仮名テキストに替え、日本画家・鈴木靖将と組ませて絵本として再編集、テキストと絵画の両面から「かなしみ」との向き合い方を描こうとする。

 物語は、一匹のでんでん虫の嘆きから始まる。

 ある日、でんでん虫は自分の殻の中に「かなしみ」がいっぱいつまっていることに気づく。どうしたら良いかわからず、「もういきていられません」とまで思いつめるでんでん虫。

 その「かなしみ」を友だちに訴えると、「あなたばかりではありません。わたしのせなかにもかなしみはいっぱいです」という。次つぎに友だちを訊ねるが、「あなたばかりじゃありません。わたしのせなかにも…」とみんな同じようにいうではないか。

 で、でんでん虫はもう嘆くのをやめてしまう、という結びで物語は終わる。

  実は原作の「デンデンムシノカナシミ」、1998年国際児童図書評議会ニューデリ大会で、美智子皇后が,幼少期に読み聞かせてもらった思い出に残る童話として紹介したことでよく知られる童話なのである。

  物語は、「誰でもかなしみを持っているのだ。自分だけではない。誰でもそれをこらえながら生きている」という普遍の理を行間で語っていると絵本の編集担当者は述べている。だから、「かなしみ」から眼をそらさず、こらえて生きるその向こうに他人を思いやるやさしさが生まれるのではないか、と…。

 かくして、描かれたでんでん虫の殻のなかは特異な文様の「かなしみ」でいっぱいだが、嘆くのをやめると決めたのちは、黄褐色の元気あふれる姿で彩色されている。そして、南吉の苦難に満ちた人生から紡ぎ出される素朴でやさしい語り口の言葉のつらなりが、幾分暗くなりがちな物語の調子をふんわりとやわらげる。

 果たして南吉は「カナシミ」にどんな意をふくめたか。「カナシミ」は、「悲しみ」とも「哀しみ」とも書く。そして、「愛(かなし)み」とも書く。微妙にちがうそれぞれの意を考えたいと思う。
(おび・ただす)

 

(『でんでんむしのかなしみ』新美南吉:作 鈴木靖将:絵 新樹社)

 

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