たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第124号・2019.05.10
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隣の芝生は青くない

『とんでもない』(アリス館)

 

とんでもない あまりなじみはないが、古くからの言い伝えに「隣の味噌」ということわざがある。隣のぬかみそのほうが香ばしく感じられるように、よそのものはなんでもよく見える(『大辞泉』第1版)というのである。

 まぁ、多少の差異はあっても誰しもが持つ競争心のなせるわざだろうか。他人のあれやこれやが自分よりも良く見えてうらやましがることの意だ。おなじ意で『大辞林』(第3版)には「隣の芝生は青い」も出てくる。実は、このことわざの出処は英語圏で「The grass is always greener on the other side of the fence」の訳語だという。現在の日本人には、不思議にもこちらのほうがなじんでいるのだから面白い。

 人びとのこの種の心情は、世の古今東西、さほど変わらないということだろうか。ただ、だれもが抱くこんな心情も度が過ぎると問題となる。あこがれや少々うらやむ程度ですませればいいのだが、ひがみ、ねたみ、そねみという厄介な心情に発展するとただごとでなくなるだろう。

 絵本『とんでもない』の主人公「ぼく」もそんなふつうのひとり。「ぼく」には、「ぼく」しかもたない、「ぼく」しかできないすごいことがひとつもないと、悩みみを吐露するではないか。サイの置物をながめては、「よろいのようなりっぱな皮がかっこいい 、「サイはいいなあ と、ためいきまじりにうらやむ…。これだけですめば、まあ、少年期の健康な心情の範囲だろう。ところで、うらやまれる方のサイは自分をどうとらえているのか、「ぼく」はまるで知らない。 見かけだけで他者をうらやみ、たいした根拠もなく比較したり競争したりすると、あこがれやうらやむ気持ちだけですまなくなり、ひがみに変わる。卑屈になってこびをうる。ねたんでにくむ。よせばよいのにありもしない造言をはき悪口をはく。こうなったら重症だろう。

 だから、「ぼく」はそうはならない。はたからみるとすごいことと思える特長も、絵本に登場する生き物たちにとっては長所ではなく悩みにさえなっていることを「ぼく」は知る。見かけだけで判断することのおろかさを感じとるのである。

  「ぼく」だって、長所のひとつふたつをさがせるはずで、それをはたがどう見るかは気にすることではないのだと…。そうなのです。本を読むのがだいすきな「ぼく」。それだろう、「ぼく」のすごいことって…。

 実際、「ぼく」があれほどうらやんだサイは「とんでもない」と悩みを語るのだ。「おもいんだよ、よろいは」となげくサイは、「身軽にはねまわりたい とウサギをうらやむのである。うさぎはうさぎで「とんでもない」とほめ言葉をさえぎり、「はねすぎちゃってこまるんだ と悩みをうちあける。

 そうなんだ。クジラだって、キリンだって、鳥だって…、はたからすごいと見られるところを自分では短所だと悩んでいる。隣の芝生は青くないのだ。

 だれでも得手不得手あり。自信も悩みもかかえる。絵本は、自分は自分と自覚すること、見た目だけで判断する短絡さや過度の競争心を持つことの弊害をやんわりと示唆して作品は終わる。モチーフゆたかでパワーたっぷりのイラスト描出が冴える。明瞭なテーマを平易な語り口で親しめるテキストもいい。
(おび・ただす)

『とんでもない』
(鈴木のりたけ=作・絵/アリス館)

 

 

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