たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第125号・2019.07.10
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先生って、どんな人をいうのだろう

『せんせい』(福音館書店)

 

せんせい 先生とよばれる人はどんな人だろうか。『大辞林』によれば、①に学問や技術・芸能を教える人で、とくに、学校の教師であり、また、自分が教えを受けている人であるという。この意にはだれでもすなおに納得できるだろう。
ところが、『大辞林』は②の意に教師・師匠・医師のほかに代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬う語でもあるとする。昨今の、言いのがれやうそに満ちた議員たちの行状や発言を知ると、こんな議員たちまで先生とよぶのかと違和感がつのる。そうだろう、どう考えても不愉快ではないか。先生とよぶにふさわしい人物から「先生といわれるほどの馬鹿でなし」と敬遠される言葉となっているとしたら語意が転倒してしまう。

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 絵本『せんせい』に描かれる先生は、だれからみても、どこからみても先生だ。物語の舞台は保育園か幼稚園の年少組のようである。
 「ねえ、みんなしっている?」と言葉を投げかけて、子どもたちが”せんせい”を、語る。たのしく語る。親しく語る。自慢げに語る。「せんせいって、ときどき うまだよ」って。「…ときどきオニだよ」って……。これを承けてページをめくると、「ねっ!ぱっか ぱっかのおうまさん」「ねっ!おにごっこの オニ わーっ、にげろっ」と、遊びであふれる園の活動を、子どもたちは語る。うれしそうに語る。子どもたちも”せんせい”も、よく遊ぶ。ここでは遊ぶことは学ぶことなのだ。…かくして”せんせい”は、おすもうさんになり、おおかみになり、ままごとのおきゃくさんに、かんごふさん、おとうさん、おかあさんになっていく。

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 幼保教育のたしかな実践者であり、数多くの幼児教育論考を著してきた大場牧夫は『せんせい』のなかで先生と幼児たちとのあるべき姿を描きたかったのだろうか。ここでは、徹底して未就学幼児の目線から先生像を語り描く。

 ぼくの父や母も教師だった。理数科教師だった父は戦時下の外地赴任(大連)をふくめて戦後の70年代半ばまで教師をつづける。そんな父を、多くの教え子たちが自宅によく訪ねてきた。地元役所の職員や漁業・農業従事者たち、企業人に大学教授、父にあこがれたという小・中・高の教師たち。そのころ、まだ児童や生徒であったぼくも、教え子に慕われる父の職業にいくらかなりとあこがれを持っていたように思う。

 不思議なことに、古希すでに越えて喜寿に近づく年齢となったぼくには、学童期から姉・兄と慕ってきた父の教え子との交流が首都圏でつづく。

 その父はよく言っていた。「学者と教師はどちらも先生と呼ばれるが本質がちがう。教師はなによりも児童や生徒と全人的に向き合わなければいけない。だから、教師としては大学より高校、より中学校、より小学校の方がむずかしい。人間力をもっとも必要とするのは幼稚園や保育所の先生だろう」と。

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 作者の大場牧夫は大学で幼児教育を論じながらも数十年の本職を幼稚園教諭として生きる。先生として生きたのである。全人的に子どもたちと向き合う『せんせい』像に作者のすがたを読みとれるように思う。

 そして、『せんせい』をいっそうの傑作に仕上げた長新太のイラストの役割を見のがすわけにはいかないだろう。達意で闊達なイラストはテキストを幾倍にも引き立たせて子どもたちや”せんせい”を躍動させ、明るく親しめる彩色で活写する。”せんせい”の役割を12項、表裏2ページでくりかえす。この心地よいスピードとリズムをイラストが親しく展開させる。

 いっしょに遊んで子どもみたいに転んでしまう”せんせい”。”せんせい”は、子どもたちみんなの先生だけれど、家に帰れば子どものいる本当のおかあさんで、”せんせい”にもおかあさんがいる。だから、”せんせい”も本当の子ども。そんなことを、いつのまにか、子どもたちは知っている……。いいおはなしである。
(おび・ただす)

(『せんせい』大場牧夫・文 長新太・え 福音館書店)

 

 

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