小沢俊夫の昔あったづもな  

第三信

B29 への体当たりを見た
言葉なく空を見上げていた

   あちこちの戦線で「玉砕」があったことが報道され始めた頃、ぼくたち中学2年生は「勤労動員」と称して軍需工場に労働力として駆り出された。ぼくは立川で、東京府立第二中学校に在学していたので、南多摩にある陸軍第二造兵廠に配属された。
 ぼくらの仕事は、出来上がった火薬を木箱に詰めて封印し、馬車で火薬庫に運びこむ仕事だった。送られてきた火薬を木綿に包み、木箱にきれいに並べて詰め、蓋を釘で打ち付ける。仕上がりの重さは30キロと言われていた。木箱を作業室の一隅に積み上げる。箱がたまると馬車が来る。ぼくらは積み上げた木箱を肩に担いで馬車に積み上げる。それから、馬車と一緒に遠くの谷間にひっそりかくれている火薬庫まで運び、火薬庫の中にまたきちんと積み上げる。それが一連の仕事だった。火薬だから絶対に落としてはいけない。「万が一落としそうになったら、手がつぶれてもいいから、最後まで手を放すな」ときつく命令されていた。
 木箱を担ぎ上げるには、箱の両側にひとりずつ立って持ち上げる。担ぎ手は肩を入れ、箱を45度に傾けて肩に乗せる。肩に食い込んで、肩当てをしていても痛かった。肩はだんだんに固くなり、翌年の敗戦のころには鉄板のように固くなっていた。
 30キロの次に来たのは45キロの箱だった。中身は戦車地雷の火薬とのことだった。政府は、「本土決戦」という言葉を使って、アメリカ軍を本土まで「おびきよせて」本土で殲滅するのだという。そのための戦車地雷だった。サイパン、グアムで負けた日本軍が、本土なら勝てるというのである。もし天皇が本当にそこまで敗戦を決断していなかったら、日本本土での犠牲者は数知れなかっただろう。
 次に来たのは60キロの箱だった。これも一人で担がなければならないので、箱を担げる人数は少なくなった。次の年になって来たのは90 キロと110キロの箱だった。これは、九州の知覧特攻基地からアメリカの軍艦に向けて突っ込む特攻機が抱いていく爆弾の火薬だった。この重さの箱を担げるものはクラスに3人しかいなかった。ぼくは体が一番大きかったのでその中の一人だった。中学3年である。今、子どもにこんなことをさせたら大問題になるだろう。その頃はすべて「お国のため」だったのである。
 空襲警報が鳴ると、ぼくらは谷間の火薬庫に避難させられた。グラマンなどの艦載機が超低空飛行でやってきた。ぼくらは、一発撃ち込まれたらお終いだと観念した。だがグラマンは撃ってこなかった。彼らはもう勝利を確信していたから、火薬庫は後で使えると思ったのだろう。実際、占領後はアメリカ軍が基地として使った。
 B29の大編隊が東京空襲に向かって上空を通過したことが度々あった。ある日、ぼくらは空襲警報が出たので、火薬庫の防空壕に潜んだのだが、大編隊は東京方面に流れているので、呑気に上空の様子を見ていた。B29は3機で三角形の1組を作り、それが3組で大きな9機の三角形を作っている。光の点がそれに接近していき、またはなれていく。日本の戦闘機である。そのうちに、光の点がB29に吸い込まれたかと思うと、次の瞬間、ちぎられた銀紙がパッと広がり、エンジンだけが黒煙を引いて地上に落下していった。戦闘機が体当たりしたのだった。この瞬間に、日本の飛行士もアメリカの飛行士も即死したはずである。ぼくらは言葉なく、空を見上げていた。
 そのうちに、パラシュートがぽつっ、ぽつっと2つ開いた。当然アメリカの飛行士だと思った。ところが翌日の新聞を開くと、体当たりした日本の飛行士が奇跡的に生還したということだった。よほど運動神経の発達した人だったのだろう。体当たり寸前に戦闘機から脱出したのだそうだ。新聞は「軍神」と書き立てて大騒ぎをした。負けそうになっている日本人を奮い立たせるのに役立てたかったのだろう。だがこの飛行士も、たしか3回目には失敗して戦死した。
 戦争は、人と人とが殺しあうものである。必死になって殺しあう。戦争になってしまうと、もうそれを止めることはできない。あのきれいな青空で、光の点がB29に吸い込まれた瞬間、アメリカの若者たちが死んだ。あの時生還した日本の飛行士も、同じように空で死んでいった。
 戦争を始めたい人間はいつも「自衛」だという。自分に正義があるという。だが、正義の戦争なんてない。戦争を始めたい人間の言葉に騙されてはならない。

集団的自衛と称して、日本の若者が
戦争に駆り出される事態が迫ってきた

  同盟国とは即ちアメリカのことだが、アメリカがする戦争は自衛戦争ではない。常に攻撃に出ていく戦争である。ベトナム戦争、イラク戦争。そのアメリカと集団を組んで、日本の若者を戦地に駆り立てようというのである。  現在、アメリカが今にも軍隊を派遣しそうなのは、イスラエルとパレスティナの紛争とイラク国内の紛争である。だが、この2つの紛争には、日本は全く関係がない。アメリカに付き合ってそこに日本の若者を兵隊として送りこむということは、日本人として普通に考えれば、まったく愚かな、無駄なことである。  イスラエルとパレスティナの紛争は、完全にユダヤ教とイスラム教の宗教戦争である。ユダヤ教にとってもキリスト教にとってもイスラム教にとっても、エルサレムは聖地で、互いに独占したがっている。イスラエルの民、即ちユダヤ人にとってエルサレムはダビデの町であり、母なる都市である。ダビデが西暦紀元前1000年頃、エルサレムを首都と定め、その後、ソロモンがエルサレムに神殿を建てた。  そしてキリスト教徒にとっては、エルサレムはナザレ人イエスの死と復活の舞惑がある」とうそを言って戦争を仕掛けて、イラクを大混乱に陥れ、人びとに地獄の苦しみを強いている。シーア派のマリキ政権に対して、最近、スンニ派が反撃に出て、いくつもの重要都市を抑えてしまった。その混乱の間に北部にいるクルド人が勢力を拡大し、油田を抑えて、今やクルド独立国家を樹立しそうな勢いである。(クルド人は独自の国を持っていない悲劇の民族である。これまで、何人もの独立運動指導者が葬り去られている。ぼくは独立を願っている)。
 アメリカは、シーア派のマリキ政権支援のために手を出したいところだが、世論はもう戦争に賛成しそうにない。そうなると日本の軍事力が魅力的なのである。
 だが、イスラムの中でのスンニ派とシーア派の対立はもう1000年以上続いている対立である。とても終わる話ではない。そんな紛争に、日本の若者を兵隊として送るなど、絶対にするべきではない。
 安倍首相の集団的自衛権の主張を聞いていると、いくつもの事例を挙げて、こういう場合に必要なのだと主張したが、ひとつひとつを吟味してみると、机上の空論ばかりである。曰く、「紛争地の日本人がアメリカの軍艦で救助されて運ばれているとき、その軍艦が攻撃されたら、ほっとくわけにはいかない」。だがアメリカの高官が「軍艦に民間人を乗せることはあり得ない」と言ったと報じられている。
 日本の若者を兵隊にして戦地に送り出すことは絶対にしてはいけない。日本は平和憲法を持っている国として、世界に平和を説いて回るべきなのである。 (おざわ・としお)
 


小澤俊夫プロフィール

1930年中国長春生まれ。口承文芸学者。日本女子大学教授、筑波大学副学長、白百合女子大学教授を歴任。筑波大学名誉教授。現在、小澤昔ばなし研究所所長。「昔ばなし大学」主宰。国際口承文芸学会副会長、日本口承文芸学会会長も務めた。2007年にドイツ、ヴァルター・カーン財団のヨーロッパメルヒェン賞を受賞。小澤健二(オザケン)は息子。代表的な著作として「昔話の語法」(福音館書店)、「昔話からのメッセージ ろばの子」(小澤昔ばなし研究所)など多数。

 

 

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